無駄足
家から歩いて行ける所に石切夢観音という珍スポットがあり、友人を連れて行った。わりと有名な雑誌の『珍紀行』特集で載ってたりもするのだが、この場所、本当にくだらないのである。参拝する気にもならないほどに空間の持つ緊張感はなく、何と言うかとても残念な場所。はっきり言って得るものはない。そのくだらないものに辿り着くための道のりはまさに無駄足。
しかし、にもかかわらず私は友人を連れて行った。「うん、何度来てもくだらない。」友人も、「くだらないね。」しかし、不思議とこういう無駄足は忘れないものだと思う。
大発見へはその無駄足もなく辿り着くことがあるが、くだらないものへは絶対にその無駄足なくしては辿り着けないようになっている。まぁだから無駄足であるわけだけど、何かそこに意味を感じてしまう。
昔テレビで観たのだが、比叡山の延暦寺の坊さんで、「千日回廊行」確かそんな名前の修行だったと思う、それを二回もやった坊さんが居る。それはとにかく千日、山々をひたすら行脚し続ける修行で、数ある行の中でも過酷な行であり、それを最後までやり遂げた人は百人も居ないらしい。ましてはそれを二回もやり遂げた人は確か歴代で三人目だという。数年かけて毎日、独り山の中を歩き続けるというのは一体どんな状態だろう?想像を絶する…その番組で取材に行った聞き手の質問にこんなような事を言っていた。「千日歩いたけど何もなかったよ。だからもう一回やることにした。それでも何も分からないけどね。」本当に仏のような笑顔でそのじいさんはそんな事を言っていた。
そう言えば、それを観た数カ月後に私は熊野古道を歩いた。今思えば、その影響があったに違いない。私はたったの三日だったが、もう十分だった。…ふと、「三日で何もないのなら、千日かけても何もない」などとじいさんは言うような気がした。いやはや、世の中には本当に凄い人がたくさん居るとつくづく思う。千日回廊行…究極の無駄足だったのではないかと想像する。
2008.12.31