熊野古道
2007年の11月16日から3日間 私は知人と二人で和歌山の熊野本宮大社から那智大社までの熊野古道を 楽器を演奏しながら歩くというふうにやってみた 一種の極限状態の中での演奏に新たな発見を求めて行ったのだが 結果そんなものは何もなかった
しかしこの体験が今になって変化し より重要なものとして自分の影のようにそこにあるのが分かる なので少しだけ書こうと思う
今思うと あの時 音を出して演奏していた時間よりも 何も弾かずにいた時間のほうが長かったように思う それは歩くことに必死で演奏できなかったわけでなく 無意識のうちに弾かない方が より正確だと感じたからだと思う 音楽的に正確さというのが大切であるように 一種の狂気には正確さが伴うと思う
歩くという運動 考えるのではなく 次の足が次の地面を捕まえて 同時に身体の中心が 意識の中心が 前へ前へと移動する この反復運動はとても正確である
そしてこの運動こそが何よりも音楽的であり演奏であったから 弦を弾くことが少なくなった さらに楽器を弾いていた時の音楽も同様に音数の少ない ミニマルな反復音楽であった しかしこれには歩きながらの状態で弾けるフレーズに かなりの制限があったことが関係している
このような沈黙の音楽を山の中を歩く状態ではなく ここでこうして静かに座り命は常に揺らぎ 宇宙が歩き その全ての運動が私の中に入ってくる もしくは私がその中に入っている
そんなふうにやりたい
想像だとか現実だとかの前に 今ここで 分からないことを分からないままにやろうとする その方が分かろうとするよりも可能性があるから
熊野古道での体験はそういった考えを作った ひとつの大きな始まりであった 始まりという文字を使うのにも理由があるし 他にも不思議な体験や ここでは書けない体験 もう二度と行きたくない場所も体験したが 書きすぎるのはよくない 2008.9