私は形を信用している。
何でも形から入る子供だった。
例えば私は野球少年だったのだけど、(今の私しか知らない人には必ずと言っていい程、意外に思われる...)なぜ野球をはじめたのかと言えば、それはユニフォームがカッコ良いと思ったからだった。小学二年の話だ。実は野球そのものが好きだったというより、野球のユニフォームが好きだったのだ。野球少年は半ば無理矢理にでもファンとなる球団を持たなければならない。結果私は近鉄バッファローズのファンだった。赤と紺のストライプに水牛のマークの入ったユニフォーム。(あの水牛のマークが岡本太郎のデザインだったことを後に知る) あのユニフォームのファンだった。小学時代に最も描いた絵はあのマークであろう。
小6で釣りに目覚めた。それはリールの形に惹かれた事が関係していると思われる。
ギターをはじめたのも小6であったが、これは物質的な形というより、精神的な面での形であったように思われる。
中学時代に流行ったエアガンによるサバイバルゲームでは、連射式のブローバックガンや装弾数が500-600発もある電動ガンが主流の中、たった6発しか装弾できないリボルバーを片手に野山をかけまわった。むろん、その頑なな姿勢の背後には形があるのだ。
そんな私が無意識に惹かれ続けている形...、それがホーン型(ラッパ型)である。自作パイプオルガンを作った (というより作ることができた) 原動力もそこにあったと思われる。なぜホーン型が好きなのか?と事あるごとに自問自答してはみたが、こういう事に他人を納得させ得るような理由はないものである。ただただ...それが自分の琴線に触れる形であっただけだ。
...と、形について少し書いてきたが、ここでひとつ、前々から私が強く感じている事がある。それは多くの人が《形》の話を馬鹿にし過ぎではないか?という事である。この文章の冒頭のように、「形から入った」と聞くと、多くの人はそれを軽率に捉えるであろう。あたかもそこには中身がないかのように、表面的で薄っぺらい事であるかのように捉えられる。それが形に対する見方として普通とされているのが、どうも前々から気になっているのだ。
私は形を信用している。
ホントに言葉の通り、信用していると言っていい。形から入るというのは、決して軽率な事ではない。私が子供の頃にバッファローズの水牛マークに惹かれたことと、自作パイプオルガンを作り得たことはイコールである。パイプオルガンを作った動機として、最も納得のいく答えはそこにあるのだ。論理的に筋の通った理由よりも、興味深いコンセプチュアルな理由よりも、《形》とは私にとって強度のある理由なのである。
...今 ふと気が付いたが、バッファローズ・水牛マークの角の部分、あれもホーン型だったんだな。
2013.03.03