手足の労働、例えば熊手と竹ぼうきを使い分けて落ち葉をかく
私は僧侶でもなければ禅者でもないが、一人の人としてまたは一人の音楽する人として、心身の向上を生活の上に計るのは当然のことに思う。
ここのところ意識的に、手足の労働すなわち作務なるものを日々に課しているのだが、これがとても良い。それはただの草刈りであり、落ち葉かきであり、枝打ちであるのだが、そういうことを毎日少しでもいいから打ち込んでやると、不思議にすっきりとしてくる。なんというか...「心が身体の真ん中にある」感じがしてくるのだ。この状態は当然全てのことに関わ ってくる。音楽するときも、料理するときも、ボーっとするときも。全ての向上に繋がる。「作務を怠るもの食うべからず、作務の上に成る演奏、これ威力あり。」とまぁそんな気がしているのだ。
僕が思うに、あらゆる表現はそれ相応の生活や暮らしと等しく結ばれているというのが自然である。時に生活から全く切り離された表現というのもあるにはあるが...果たしてそれは本当に美味いか?一度舌を楽しませるには良いやもしれんが、噛みしめて血となり肉となるような味には成り得ない。逆に、どれだけ日常離れした表現であっても、その作家の生活の中にそれ相応の生活が結ばれていれば、味わい深いに違いあるまい。
「心と身体とが、生活と表現とが、その人の中で 自然と一つに結ばれている状態」それを私は高めたい。その上に立つものであれば、表現の形などいかなるものであっても構わない。形ではなく、状態を高めたいのだ...。その為に作務は必要不可欠であろう。
以下の文章はある本からの抜粋である。はじめの通り私は僧侶でも禅者でもないが、作務について有意義な内容なのでここに引用したい。
【手足の労働すなわち作務なるものを、僧堂の教育の基礎とせぬところには、真正の作家を鋳出しえないと私は信ずる。】
【ガンジーの糸つむぎの精神はどこにあるかというに、つまるところは霊的生活の上に労作の必要なことを力説せんとするにあるのだ。】
【乞食托鉢のみにたよらずして、山林から薪を伐り出し、田畑から野菜を収穫するようにしたい。 果樹園が出来たり、花畑が出来ればまた妙である。 それから紡績や機織が出来て、自分の衣服を自分で作り上げられる仕組みになるのも面白い。味噌や醤油、漬物などはいうまでもなく、自家用に製造しなくてはならぬ。大工、左官、土工等の仕事も、時に応じこれに慣るるの風習を作るがよい。】
【頭のみの発達を期するのは、なんと見ても人を片輪にする教育である。頭の存在は手足や軀幹があってのことで、とうてい独立のものではないのである。】
【大地を離れてはわれらは一日も生活しあたわぬ。大地と人間との関係を、その日常の課程に織り込んで、実地の上にこれを体得させんことを要する。】
【大地を相手にして物資の創造に従事するということ、またその物 資を料理し、組み立てたり作り直したりして、これに自家の意志を加えるということは、精神教育の上に非常な効果があるものである。】
【頭と手との連絡が自由になること、、、】
※すべて鈴木大拙著「禅の見方・禅の修行」より抜粋
私が鈴木大拙という人を知ったのは、ジョン・ケージという音楽家を通してだった。ケージが鈴木大拙に影響を受けていたということを何かで知り、それで私も興味を持ったのだ。余談になるがジョン・ケージがキノコに興味を持ったのは、辞書でmusicのとなりがmushroomだったから...だそうだ。
さてこの10月、わたしは作務を日常の課程に織り込んで、ふとこの本を読み返した。それから パソコンで鈴木大拙と打ってみると《2011年10月18日 鈴木大拙館の開館》とある。驚いた...金沢に鈴木大拙館が開館したそうだ。
2011.10.28