もう数え忘れた朝...

人にも会わず、酒も呑まず、蟻にも負けない甘糖の珈琲だけを摂り、いつも家から離れず、巨大な楽器と睨めっこしては失笑、傍らのギターを爪弾いてはまた爪を研ぎ、猫はいつも変わらず飯をせがむ、あまりに早過ぎる朝の到来、山の青さも束の間に、長過ぎる昼の横断、昼の奴めやっと渡ったかと思えば、あまりに早過ぎる朝、また人にも会わず...それが数日続いた、夏はとても寂しい。私には夏を謳歌できる才能がない。



先週のこと、鈴木昭男さんの土笛が私の中の何かをつついた。「旋律」という魔法を、「インスピレーション」を待つ姿勢を、再考しなければならない。
11's Moon Organを用いた新曲で先月からずっと手こずっているやつがある...「旅について」という曲なのだが、この曲において「歌の旋律」というものを久方ぶりに追いまわしている。
近年、「歌」ではなく「声」を、「音楽」ではなく「音」を、知らぬ間に追いまわしてきた。いや、それはもしかすると、ずっとそうだったのか?いま一度、「歌」を問う。ずっと疑ってきた「インスピレーション」を信じて呼びかける。だが、まだ「旋律」はやって来ない...、また朝だけがやって来る。



そこへふいに入り込んできたのは、私にとって意外なものだった。ジョアン・ジルベルトの音楽である。それこそ...素晴らしい「歌の旋律」と、もはや言うまでもない「リズムの宇宙」がそこには在る。まさに『声とギター』を操って自由に描くその“線”は、私の中でくすぶっている「旋律」にボソボソと語りかける。
だが、御年79歳のボサノヴァの神...ボソボソと何を言ってるのか判りやしない。外から見えぬならば内からのぞくしかない。だが私は人の曲が苦手だ、ライブで演ったことのある人の曲は、下手くそなモンクくらいのもの...ではあるが、いまこの中でくすぶっている「旋律」に、語りかけている「何か」を聴きとりたい。
そうやって名曲、「Chega de Saudade」を練習する。演れば演るだけ、ジョアンの宇宙の深さに気付き、驚き、幸福と挫折は繰り返し、ブラジル音楽の真髄である、そのリズムの波の一足前を進む「歌の旋律」は、夏と恋が苦手な私へのサウダーヂ。
苦笑する間もなく、そこへまた朝がやって来る...。



以前、ドイツ人に「バッハ」の発音を笑われたことがある。
「バッフハァッ」...あんな発音、私にはとても出来やしないが、
私は間違いなくアンタよりバッハを知っているよ。

...とそんなことを思い出しながら、何度か目の朝を通り過ぎ、ジョアンを遮ってまで横入りして来たのが、このバッハであった。
何でもいい、バッハを演奏したい...と思った所でふと、そういえばジョアンに語りかけられてからギターしか弾いてないことに気付く。新曲「旅について」を置きっぱなしで、ギター片手にまんまと旅に出てしまっている。あのくすぶりの「旋律」は今、どこに在るのだろうか?...
だが、もはやここはカツラを被った御年325歳「音楽の父」バッハの膝の上だ。やむ得ない。


私は楽譜が読めないが、ギター譜とレコードがあれば、なんとか演奏出来る...はずだ。ちなみにこれまでも幾度となく、こうしてバッハを弾きたい衝動にかられて来たが、実際のところ初めてである。数時間かかってやっと手に入れたギター譜は一つ。『ゴールドベルク変奏曲 BWV988』の冒頭部、アリア。
グレン・グールド、81年録音のレコードを参考に解読を試みた...。



入って...
間もなく...
訪れる...
一本の...
線...
わずかに...
触れる...
何か...



バッハは「楽譜の画家」でもある。楽譜の中に魔法や秘密を閉じ込めた。
数学的な法則...、浮かびあがる十字架...、暗号や、想い...、音符ひとつひとつに意味がある。分解して、紐といて、現れる線がある。私が今、演奏できるようになったのは、レコードにしてちょうど1分。そのわずか1分の中にも見てとれるだけの宇宙。クラシックの演奏家たちが、寝ても覚めても楽譜にとり憑かれるゆえん...
そこでしか作れない音楽。横たわる「旋律」...。



しかし、
私の中でくすぶっている「旋律」は、それではないのだ。

先に書いた、昭男さんの土笛によってつつかれた何か...歌の在りか...インスピレーション再考...「旅について」...
呼びかけの音...シャーマンの太鼓...こうしてまた...
バッハから遠く離れて...もう数え忘れた朝...それでもまだ...懲りずに何かを待っている...


2010.07.10

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