Debussy (1862-1918)
先日の東京ツアーにて、時間を作ってレコード屋へ行き、クラシックフロアでさくさく漁っていると気になるものが出てきた。
ドビュッシー、自演のレコードである。
演奏が残っていることを知ってはいたのだが、こんなレコードが作られていたとは知る由もない。何年前にプレスされたものなのかも判らず、少しだけジャケの傷んだそのレコードはドイツ盤で、ライナーもドイツ語により理解不能、だが何やらヤバそうな匂いがプンプンする。値段も安いので、それを脇に抱えたままひと通り見て回ってから、そいつを購入。
それを聴いて驚いた。
ドビュッシー本人の演奏は、とんでもなく自由で、こちらが戸惑ってしまうくらいに色んな所がはみ出していて、死ぬほど愉しそうで、何だろう?
こんなに生き生きとしている音楽を私は初めて聴いた。
本当に凄い、聴くたびに生き生き度が増している気がするのだ。もう何回も聴いているのに、その自由さに毎度驚かされてしまう。それと、この演奏を聴いていると、感性が豊かになるのが判る。まるで魔法だ!まさしくこれは「感性が豊かになるレコード」なのである。
それにしてもドビュッシー、怖るべし。これほどの作曲家でありながら、音楽というものに全く縛られていない。殆どの演奏家が身に付けている、一定のテンポで演奏しようなんて考えが、頭の隅っこにすら置かれて無い!その上、鍵盤の繊細なタッチ能力も、深い集中力も技術も持ってない。だがとにかく表現する喜びに満ち溢れている!こんな人だとは思わなかった。
最高に好きだ。
...でだ、
この演奏を聴いていると、音楽との接し方をもう一度見直そうと、そう考えさせられる。私は“音”と遊んでいるが、この人は“音楽”と遊んでいる。その違いは大きい。作曲家と演奏家の違いということではなく、時代性でも音楽性でもなく、もっと根本的に大事な姿勢がある。
喜びだ。
自由に歩ける喜び、息する喜び、感ずる喜び、今まさに表現する喜び!それは簡単なようで簡単でないこと。誰もが自由さを持っているはずが、なかなか自由にできないように。
ドビュッシーの演奏を聴いてハッとした。この自由さはどこからやって来るのか?それは喜びからやって来る。それは笑いながらやって来る。
純粋さ、斬新さ、正直さ、偉大さ、そのどれよりも、愉快さとは深いものだ。
2010.02.20