演奏中にしか触れられない世界
演奏中に居る世界がある。
そこでは1秒がとても長くて、今この瞬間に自分を通って出た音の、いや...というより、そこに在る音の、実に微細な部分まで感じられる。
一音の微かな震えと触れ合っていると、「あゝ単なる空気の“振動”であるはずのこの音って奴は、なんて可能性があって、なんて可愛くて、なんて厄介なんだ!」...と、なんとも言えぬ心地がする。
その、“なんとも言えぬ心地” ...たぶん自分が演奏をしている最大の理由はそこに在る。
今この瞬間を生きるということは出来るとしても、
今この瞬間に触れるということはそうそう出来るものじゃない。
私たちは普段何をするにも、一瞬遅れているのだ。
今あるものを見たとして、それが例えば丸い。それが丸いというのは記憶であって、今それが丸いというわけではない。丸い、と認識したその瞬間は今ではなく、過去であり記憶なのだ。
つまり、“今” というものを認識することができない。
なのに、
音楽を聴いたり演ったりすることは、その認識さえも出来ていないものに触れられたり、感じられたりしてしまうのだ。その“感じ”が何なのかは判らない。科学者はそれを「クオリア」という。絶対に解明されることはないと言われる科学最大の難問である。
演奏しているときのその心地は、いわばクオリアの海の中に居るということなんじゃないかしら?
そしてそれが唯一、“今”という瞬間に触れている心地である。
とはいうものの、それはあくまで音の感じ方の話であって、その感じに触れられていれば、いい演奏になるという訳ではない。演奏というのはそう安易に高められるものではないのだ。
なぜならそれはずばり、あなたが居るからだ。
音楽は言葉と同じで、共有することで初めて感動が生まれ、良し悪しが判ってくる。どれだけ顕微鏡を覗いて、音を解体していったとしても、その音のコントールを習得できたとしても、その向こう側に誰かが居ない限り駄目だ。感動できない、生きて来ないのだ。演奏とはそういうもの。
しかし私はやはり何よりもまず音に触れたい。
先に書いた、なんとも言えぬ心地の中で、あらゆる瞬間を体感したい。...が、その上で尚且つ、いい演奏でもありたいのだ。
だから私は独自の顕微鏡を開発する必要がある。
その顕微鏡は、従来の顕微鏡と同じく音の微細な観察もできるが、大きく異なる点は、その音の背景にこの世界がちゃんと見えるということ。
今までの顕微鏡ではそれが見えなかった。音の背景には真っ白な光か、もしくは宇宙の暗黒物質が見えていた。
そうでしょ?理科の時間に覗いた顕微鏡でもミジンコの背景には、下にあるミラーの反射光で真っ白な世界があったでしょ?
それが新しい顕微鏡は一味ちがう。
ミジンコの向こう側で巨大なクジラが宙返り、
とんびが一声鳴いたりすれば、
山ではイノシシ歩きだし、
終電駆け込む人あれば、
石につまずく人もあり、
氷河のきしむ音がして、
誰かの電波が悪くなり、
無音で鳥が飛んでいる、
それでもミジンコ鮮明に、
あなたのくしゃみも鮮明に、
同時にちゃんと見えている。
その “感じ”、その“心地”、、、それがおそらく認識さえも追いつかない、“今” という瞬間を演奏するということなのである。
2010.01.20