文盲と音盲
日々なにげなく本を読んだり、字を書いたりしている時に、字を使えることを誇りに思う。割と頻繁に。
昔から本を読むのは得意ではない、実はあまり好きでもない。だからいまだにそれほどは読まない。だが字を書くことは昔から好きだった。それを誇りに思う。
【明治以前の日本では、字を知っているのは実に大したことだったのだ。
弥生時代ともなれば日本人全体が文盲だった、といってもよいだろう。そこまで考えてきたぼくの頭に、ぱっとひらめくものがあった。それなら、最初の歌は、ほとんどが文盲の人たちによって詠まれたことになる。日本最初の歌集『万葉集』の歌人たちはほとんどが文盲だったことになる。.....《江戸狂歌ーなだいなだ著》】
最近読んだ本にこんなことが書いてあった。つまり一部を除いてほとんどの歌は、口伝えに伝えられてきていて、それを『万葉』の編者があれこれ日本語の表記の仕方やなんかを試行錯誤し、口伝えの歌を初めて文字に残し、記録にとどめたのである。それによって新しい文体や表現、もっと言えば文化の一つ二つがそこから生まれきたであろう。しかし私が興味あるのはそこではない。気になるのは、『万葉集』の活き活きさと、文盲との関係性だ。
つまり文盲だったから、活き活きしたものが生まれたのではないか?
これは著者も言っていたが、私もそう思う。
では、音盲とはどういう状態か?
と考えてみるが、これがなかなか難しい。耳が聴こえないということとは違う。それでは元も子もない。私が知りたいのは、“音盲の活き活きとした演奏” というのがあるとして、それは一体どういうものだ?ということ。
言ってみれば、「ドラえもんと悟空が戦ったらどっちが勝つ?」みたいな仮定であって、“音盲の活き活きした演奏” など、意味不明である。
「ドラえもんの放つ活き活きとしたカメハメ破とは?」のようなもの。
しかしそんな馬鹿なことを必死で考えあぐねた末、着地できた場所があった。
“音盲の活き活きした演奏” とはつまり、“音に対して思い込みがない状態” ではなかろうか。
音楽だと思い込まず音を出すこと。
音が自然に音楽になるということ。
それはまさしく私が感動した、鳥と同じ。彼らは音符を知らない。音に縛られない、音楽に縛られない、なんにも思い込んでなどいない。だからあんな演奏ができる。自然に近い。
“音盲” ...ちゃんとあるではないか。
「私は音盲です。これは音盲の演奏です。」
いよいよ狂ったと思われることでしょう。
2009.12.13