明るいということ
明るい人ですか?
決して明るくはない。いわゆる陰と陽の“陰”にばかり傾倒してきてしまった所がある。ある時期には、明るさに対して軽蔑すら持っていたように思う。
今年に入って災難ばかりが続いた。
正直まいった。
それが数ヶ月続いた。今までに無いダメージだった。
病院にでも行けば、十分になんらかの病名を与えられ、なんらかの薬を処方してくれただろうと思う。
でもそのお陰でというか、その代わりにというか、今までには思いもしなかった考えが幾つも生まれた。
まず最初に“おまじない”、というものが有り難くなった。おまじないとは、昔からポジティブなエネルギーを促す方法の一つだ。「痛いの痛いの飛んでゆけ~!」っといった具合に。そしてそれは実際に効くのだ、必要な人には。すこし楽になる。
「大したことない、大したことない。
小さなことだ、小さなことだ。」
災難に呑まれそうな時、うそでもそれを口にすることが、本当に救いになる。おまじないというものの有り難さを初めて知った。
次に感じたのは、“自然死”の素晴らしさだった。
まず、うつ状態の自分にタブーワードが幾つも現れた。事件、事故、裁判、殺人、、、そういったワードを目にすると、急に抑えていた不安が抑えきれなくなり、一気にうつに入る。またテレビを付けたときの、そのワードの多さには驚いた。どうかしている。にもかかわらず、ニュース以外でも、「何年後かの未来には、こんな災難がある!」とか、「~のあぶない病気」とか、そういった類の番組の多さ。世の中には不安な人がたくさん居る、不安を煽ってどうする!この鼻毛め、いや、指毛め!現にそこに居る人たちには、「あら怖い、気をつけないとね~」なんて言ってる余裕などないのだ。中途半端に不安を煽る番組など止めて欲しい。強烈に突き抜けたものなら良いが。
話が逸れた、とにかくそういったワードが恐ろしくなったのだ。すると、今までに感じたことのないほどに、事故死や殺人というものがとんでもなく恐くなった。うまく説明できないが、おそらく気持ちの参っている人は、そのおぞましい風景をリアルに想像できてしまうのだろう。だから心底恐ろしい。止めてくれ~っとお願いしたくなる。するとその代わりに、自然死というものがとても素晴らしいことに感じた。不運な死ではなく、ただの死である幸せ。そんなことをこれほどに思ったのも初めてだった。
そして最後に、「明るいということ」
明るい人は、本当に素晴らしい!
それがたとえ人前だけの明るさであろうと、私は素晴らしいと思う。
その明るさには、そのポジティブなエネルギーには、人間が生きていくために最も必要な力があると思う。
もちろん、“陰、陽”あって人間だ。
しかし人には明るくなろうと努力する必要が、誰にでもあるのではないかと思った。明るさの軽蔑や陰気嗜好など、格好つけているだけである。
災難はイヤだ。でもその中で「明るいということ」のエネルギー、そして人間の有り難さを痛感。近くに人間が居るということは、何よりも救いになる。私は、それが無かったから必要以上のダメージを受けてしまったのだ。本当に大切にしたほうがいい。
そして明るいほうがいい。
それでもきっと、私は陰の表現者だろうと思う。しかしそれは同じだけの、もしくはそれ以上の陽の気から生まれるものだ。
鳥は陽の気、師匠の気。いずれそれも私の気。“陰、陽”あって人間だ。“陽介”の陽は、陽気の陽だった。
6.15