あまのじゃく
あまのじゃくな子供だった。
2004年だったか2005年だったか?ともかくその頃に私は別人になった。産まれたと言ってもよい。本当に性格も話し方も変わった。その事を、宇宙船に乗った、と公言している。それから髪は伸びる一方である。その覚醒以前の友人はその変容ぶりに、「キモい」と一蹴。それでも当然、変わり続け現在に至るが、「あまのじゃくな子供」という面は今でも根強く受け継いでいるようである。
今思えば、音楽的環境からは程遠い家庭で育った私が、ギターという楽器を手にしたのも、このあまのじゃくな心の仕業であった。四国の錆びれた街に小6でギターを弾く奴はその時見当たらなかったのだ。私がギターを始めたのは、それだけの理由だった。
ふと思い返すと、あまのじゃくの仕業ばかりだと気がつく。21か22の若僧が、知り合いも居ない山近くの辺境に小さな一軒家を借りて独り暮らしを始めたり、配信産業が軌道に乗った今頃になってレコードの魅力を訴えたり、右向け右で左向き、「その穴に手入れたら駄目だよ~」で、手入れる。そんな事ばかりな気がする。しかし不思議なもので、そういったあまのじゃくから始まった事の方が、一時的なものに留まらず、ずっと続いていたりするのだ。
あまのじゃくな人間の方が鋭い人が多い、これは事実であると思う。何故かと言うと、あまのじゃくは大概の場合、一つの事柄に対して、少なくとも二回アプローチするはめになるからだ。ある一つの事柄を通り抜ける時、皆と一緒に通り抜けた人は、それで良しとなるが、あまのじゃくは違う所から通り抜けた後に、やっぱり皆が通った所も調べてみなければ気が済まなくなり、二度目のアプローチをかける。だから真のあまのじゃくは、「シンプルisベスト」王道に勝るもの無し!というのを、実はよく知っている。
しかも、ここで重要なことは、王道が社会の中にあるとは限らないという事だ。時にあまのじゃくの目を必要とすることもある。例えば川は蛇行するのが王道だが、社会の川はどれも舗装して真っ直ぐなのが王道だ。二つの王道がある。これが我々の居る状況である。果たしてどちらが王道か?シンプルなはずなのに、複雑な気もする。そして答えはやっぱりシンプルだ。でもそれは自分で発見するしかない。人に聞いて分かるものなら、最初から二つの王道が現れたりしない。何度も通り抜けた後に、なーんだ、それだけの事か~っという所にシンプルがあり、王道がある。
所が厄介なことに、大は小を兼ねるのだ。多くの人が一緒に通った王道と、一人で発見した王道があるとき、実は一人で発見したものの方がシンプルな時も、呑まれてしまうのが常だ。その結果、よく分からないものが王座に腰掛けている、という意味不明の状況が発生する。大は小を兼ねる、多数決、それが私は恐ろしい。
小の方に王道があると発見した時、それをどうするか?それが元来、芸術家の仕事だった。いや実の所、この時それが王道かどうかは、もはや問題ではないのだけど、ややこしくなるので王道とするが。とにかくそれをひっくり返すときに、有効だったのが芸術だった。そしてユーモアだった。そして彼らは皆あまのじゃくだった。
あまのじゃくなら良いというわけでは無論ない。むしろ、最終的には関係ない。それは入り口の話だから。
要は何か一つの対象を見極めるとき、もしくはそういう目をいつもさらっと持てている人は、あまのじゃく的な角度も真っ正面も、当たり前のように同時に見る事ができる。
それにやっぱりそこでも想像力が不可欠なのだな。きれいな月を見つけて、その裏側を見ようとするあまのじゃくには、実際その裏側に何かを見つける想像力が必要だもの。
で、『うん、月は面白い!』
当たり前のことが少し進化して、当たり前になる。
5.20