キートン、力の抜けた発想力

力の抜き方。脱力について。
これは一生かけて追求することになるであろう対象の一つである。
「私は完全に力が抜けている」そう言えるようになりたいものだ。肉体的にも精神的にも力が抜けている状態、それは死と紙一重でありながら生き生きとしている。

緊張と弛緩の関係性。どう弛緩するか、つまりどう力を抜くか、そのためにはどう緊張が必要になるか?やはり生を通過しないと死に到達できないのと同じで、緊張を通過しないと弛緩に到達できないように思う。

悟りを開くときに過酷な修行を必要とするのも、緊張と弛緩の関係だろうし、ランナーズ・ハイというのも、シャーマンのトランス状態を作るための儀式音楽や踊りというのも同じような関係性があると思う。一種の極限状態になるまで走り続ける、踊り続ける、というのは「緊張」であり、それを経て弛緩へ突入する。緊張と弛緩の間に“扉”があるのだ。


もっと日常的で我々の身近な所にも分かりやすい例がある。「笑い」だ。弛緩というのは、笑いとも言える。つまりどう弛緩するか?というのは、どう笑うか?というふうにも言える。だから「笑い」を扱う作家や芸人というのは、私の言う“力の抜けた状態”を追求する同志とも言える。

面白い落語なんかを聴くと、それがよく分かる。話術によって、緊張と弛緩を巧みに操っているし、何よりもその面白い咄自体を発想した人は、それを思い付いた時、実に力が抜けていたのだろうと思う。《目がもったいないから、左目を十年間つむって暮らしてきた男が、十年経ったので今度は右目をつむって左目で見たら、知っている人が誰も居なかった。》とかね、実に力の抜けた発想だと思う。

「笑い」を扱う人間、つまり喜劇人なんかには、そういう人が居る。最近、バスター・キートン短編集を見直してみて、以前よりも遥かに感動できた。
“笑わない喜劇役者”…笑わない上にやっていることも全然面白くない。とことんくだらない。所が、そのくだらなさが気がつくと人生を表現している。“人生はくだらないことに忙しい”
馬鹿馬鹿しくて、無意味、しかし力の抜けた発想だ。頭の固い日本の政治家に、キートンの面白さが分かる人間はどのくらい居るのだろうか?私は議会中、背後の壁にキートンの映画をいつも流していたら良いのにと思う。我々がこんな所に毎日集まって話しているのは、本当はくだらないことなのだ、ということを忘れないために。キートン短編集はサイレントだから丁度よいではないか。
古代エジプトには、そのために王宮専属のコメディアンが居たとか、居ないとか

5.15

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