円盤の引力、質量§魔力を収納するパッケージ
このもはや意味不明の現代を読み解き、そして真っ直ぐにそれを謳歌するにはどうすれば?
いつの時代もいわゆるアーティストが第一線で取り組まねばならない問題である。アーティストが作品や物事の流通や価値の置かれ方を考えず、自分には関係ないのだ、それが自由な創作だ、などと言うのは、まさにくだらないアーティストのエゴであり、単に視野が狭いだけである。
音楽はそのメディアによって大きく姿を変容させ、その効果も全く違ってくる。今のこの配信×配信の状況が良いとか悪いとか言う問題は、そもそも遡ってみても、CDになった時のアナログかデジタルか…とか、LP盤ができて、コンサートに観に行く事の意味が変わった…など、まぁその時その時に何かしらあるわけで、だから結局まっすぐな輝いてみえる考えとは、その状況を利用してどう謳歌していくというのが一番まともであるし、素敵だと思う。現にその配信というシステムを逆手にとって利用する音楽家が第一線にたくさん居る。
、、、が、配信というものについて、やはり私は惹かれない。まず1曲づつ買うというのが気に食わない。アルバム10曲の中で好きなのは1~2曲であると、だからそれを買うと…確かにそうかもしれないが、それはその時の自分の小さな趣味趣向なわけで、それもあくまでその時だけの話で、一年たった頃には変わってるでしょ?その時にアルバムを聞き直したら、残りの8曲の方が人生を変え得るかもしれない。その時だけの小さな自分にごまかされて、1曲だけ買うなんて自分の可能性を自分で捨てているようだ。自分の趣味趣向なんて、とてもいい加減なのだから。
そして何より、私が配信に惹かれない最大の事とは、質量が無いことだ。もうこの問題に尽きる。データとしての重さではなくて、手にとって、重さがある。円盤がある。これが何故、重要かと言うと、まず引力が発生する。だから次の盤に次の音楽家に繋がっていく。“盤が俺を呼んでいるぜ~!”そのためには質量が大事。形があるから強力な引力が発生するのだ。
あとCDにしてもレコードにしても、“円盤”であるという事の重要性も感じる。何故まるいのか?それは勿論、回転するからであるわけだが、これは凄く的を得ていると思う。音楽は回転するものだ。演奏していても思う、音楽が回転していると…回転しないなんて音楽じゃない。
他にも盤の必要性で大きいと思うのは、それを聴くために準備が必要な点だ。
盤を聴くには、まずパッケージから盤をとりだす、盤をトレーに乗せる、盤に針を落とす。それから最初の音が鳴りだす。これですよ。音楽を聴くには絶対、準備が必要です。自分にとって。聴くからには感動したいものね。これができるのとできないのとで、音楽は180度変わる。盤に触れる、乗せる、針を落とす。その一つ一つの作業は、自分がその音楽を聴く姿勢を作るためのスイッチですよ。
そもそもレコードやCDを聴かなくたって、外には良い音楽がたくさんあるわけで、それでもわざわざ音楽を聴くのだから、そういう作業を省いて何になるのかしら。
共有する世界を大事にするのは、表現者にとっても受信者にとっても重大な点である。
コンサートの場合、まず共有しているのはその環境、空間である。まさに直面している、目の前にある。そこにリアリティがある。
では音源の場合、共有しているのは第一にその円盤自体ではなかろうか。つまり物だ。円盤の共有。それがまず一つあるように思う。そこにまずリアリティがある。だからその形にはとことん苦心した方がよい。時代遅れのようだが、やはり私はそれをないがしろにはできない。そもそも魔力は何処へ行ったのか?社会の概念や仕組みの中だけでは変えられないものを、川の向こう側から魔力を持ってやって来て、頭や言葉だけでは表せない事をまざまざと体験させ、常に新たな角度で人を変え得る、芸術の魔力は!執拗なまでに魔力に目を向けない限り、やはりそれは夢物語だが、その力は間違いなく実在すると私は確信しているし、第一表現者がその力を扱わずにどうするのだ。街中にイタコが溢れているわけでもあるまいし。だからこそ形に苦心する必要があるのだ。つまり、魔力を収納するパッケージだ!
5.2