山の上のアンテナ、頭の上の春
「すぐ大きくなるんだから。」と、ブカブカの制服を着る。その通り。それはすぐに小さくなる。人は今の自分から少しはみ出したものを探す。現時点ではしっくりと合わない。それでよい。
音楽でも同じこと。楽曲を作る、その時は感覚とヴィジョンによって、その曲の素晴らしさが分かる。なんて素晴らしいんだー!っと。が、今の自分には演奏できない。少し先を行ってる。だから、まだ実在してないのだ。それでよい。自作によって自演が育てられる。新たな演奏術が自然と必要になる。それが身につく頃には新曲ができている。またか、このやろ。いたちごっこ。それでよい。
気になる事がたくさんある。すると、「ああ知りたいー」だから本を読む、考える、レコード聴く、散歩いく、映画観る。気になっていた事が少しだけ解ったが、気付くと余計気になる事は増殖していて、混乱する。今の自分には納まらない。少し経つと、混乱は失くなり落ち着く。それはきっと半分半分である。半分は自分の容量が少し大きくなったから。もう半分は、その分何かを忘れたからだ。それでよい。忘れるのはよいこと。自分に凄く重要なことは絶対に忘れない。ギターの弾き方は絶対に忘れない。忘れるのは今の自分から遠い所にあるか、風に飛ばされやすい表面上にあるか、どちらか。大丈夫、いつか必要になれば、その忘れてたことがまたぶつかって来るだけだ。それでよい。
そのたびに衣がえをしなければならない。衣がえは新たなアンテナを打ち立てることだ。自分の流れと自然の流れを汲みとって、それを決める。ヤドカリが貝を替える。木の年輪というのも、天変地異があった時には年輪の間隔が広くなっているらしい。おそらく衣がえしたのだろう。我々も日々衣がえするべきだ。季節が変わったからではなく、自分が変わったから。
それでも自分から少しはみ出したものがいつも気になる。
気になる、観察、研究、発見、勘違い、混乱、観察、熟考、発見、変質、習得、遊ぶ、気になる。
何故気になるのか?
成長したいからというのは大前提だから言うまでもない。そうではなく私が思うに、凄い人が居るからではないだろうか。凄い人が居るから成長できるし、気になる事もたくさん与えてくれる。もちろんそれだけではないだろうが、私はそれがかなり大きいものだと思うし、そう思いたい。
太宰治の『もの思う葦』というエッセイのようなものがあるが、これが私とても好きだが、その中で…『人は人に影響を与えることもできず、また、人から影響を受けることもできない。』と太宰は書いている。私はそうは思わない。いや、太宰も思ってないと思うけれど、そう書いてしまったのだね。もしくは一時的なものか。なんにせよ、そんな事はないと私は思う。何を追求するも発見するも確かに全て自分次第であるが、そこに人の影響は必ず存在するし、むしろ存在するべきだとさえ私は思う。きちんと影響を受けるためには、それなりのものが必要だから。
私は自然をみる。それは人が居るから。成長したい、それは人が居るから。人が居るから自然をみる。自然があるから人をみる。人は人に影響を与える。これほど内部ばかりを生き、個人的なものを見てきた私がそう思うのだから間違いない。私はそこから抜け出した、そこから産まれた。
でもやはり自然を発見するのは自分しかいないのだ。凄い人を発見するのは自分しかいないのだ。
実際、太宰はたくさんの凄い人を知っている。その人たちに感銘を受けている。そういうことも書いている。太宰が井伏鱒二について書いている文章は、とても面白かった。太宰も人から影響を受け、与え、必死に内部と外部を繋げようと苦心したのだ。毎日のように朝まで本を読んで、そこから宝石と汗と毒を発見して、ぼさぼさの髪を掻きむしりながら熟考する、混乱する、発見する、今年3回目の春が来る。
4.21