教訓
ここに住み始めた時、庭から家が一軒も見えなかった。それがある日、幾つかの林の木が切られ、一~二軒の家が見えるようになった。それを私は本当に嫌がった。数カ月後、また同じようなことがあり、今度は少し離れた所のマンションが見えるようになった。凄く嫌だった。しかしそれで終わりではなかった。今回の工事で池は埋め立てられ、林は完全に失くなった。一本の大きな桜の木を除いて。施工主に話をするも、個人の土地だから仕方ないと、まるで話にならず、予定通り工事は進んだ。表面的な世界だけに囚われて、木の壮絶な声も届かず、次元の流れも見えず、ただ社会のルールと、“仕事”という都合のよい意識だけを基準に、作業は進む。吐き気がした。その状態を前に私は彼らに対して、表面的な全ての世界に対して、今までにないくらい閉じてしまった。本当に腐っていると思った。
しかし、その一件で何よりも腐った状態にあるのは自分だと思った。それにはすぐに気付いた。悪循環のただ中に居る。その悪玉を探した。木が幹から倒れるときの音を考えたり、その木を切る人の感覚を考えたり、地主や施工主への津々浦々…自分の意識の流れに注意したり、演奏やコンサートの事を考えたり、幾つもやってくる波に必死に目を向けていた。家に帰り、庭からすっかり開かれた景色を見ながら、ふと思う。
『どれだけ素晴らしい音が出せても、相手に対して開かれていなければ、それを見ても感動できない。やはり共有できなければならない。私は音の宇宙に対しては開いているが、相手に対して、人に対しては閉じてしまっている時がある。内部の世界に傾倒し過ぎている所がある。自分の世界を育てることは大切だが、同時に人に対して、外に対しても開かれていなければならない。
相手が自分の音を分かろうが分かるまいが、私に対して開いていようが、閉じていようが、、、
“私が相手に対して開いていなければならない”』
当たり前のことだが、今わかった。こうして林が失くなって、向こうの家や人まで開かれて、死ぬほど嫌がった結末の風景を前にして、ようやくこれが自分への教訓だと気付いた。
私も内部の木を少し切って、日当たりをよくする必要があった。家が一軒見えるようになった事を、あれほど嫌がったのは、今思えば少し異常だった。今回の工事でも、彼らをめちゃくちゃ気持ち悪いと思ったし、恨みさえ持ちそうだった。
確かに腐っているとは思う。それはやはり腐っている。表面的な世界だけに囚われて、すっかり腐った状態は変わらず蔓延している。 しかし、だからといってそれに対して閉じてしまうのは、違っていた。たとえそれらが自分に対して閉じていようとも、表面的であろうとも、自分はそれらに対して、“開けるように”育てるべきだったのだ。
4.12