災難、災難、歩く

ここ数週間の間、立て続けに災難が降りかかって来ました。何か一つの事をきっかけに雪崩みたいにドドドッと連鎖して流れてくる。これは何かおかしいと思って、一旦ゆっくりと考える。何かが迫っている。嫌なことが悪いとは限らない。
これを悪い予兆とするか良い予兆とするかは自分次第なのだろうと思います。

しかし本当に嫌なことであるから、正直どうしようか戸惑った。でも、いざ付き合うしかないと覚悟を決めたら、結局これが一番精神的にも楽なわけで、人間は迷いを振り切れば自分が思っているよりも遥かにエネルギーを秘めているのだと思います。当たり前の事なのですけどね、やっぱり我々は思い込んでしまっていますから、"習慣"という強大なものに支配されて、そういったエネルギーとか柔らかさに、なかなか気付けない。こうしてここに立っているのも、重力と同じだけの力がその反対にも働いていて、こう立っているのに、気を抜くと重力方向しか感じてないような事になってしまいます。
だから「歩く」という一見単純な運動が、時に凄く不思議に思いますし、ああ、こう生きれたら、こう演奏できたら良いのになぁとつくづく思います。
鈴木大拙という人の本で、「禅の見方、禅の修行」というのがあって、とても私にはすらすら読めるものじゃなかったので、完読してませんが、その中で「行脚」について、つまり「歩く」ことについて書いている文章があって、以前とても感心しました。
《行脚は両足の運動である。心が動くままに外に現れたのである。十何貫かの重さを有するものを、わが心のままに動かしまわすこと、これが行脚の原理。これは何の意味もないように思われるかも知れぬが、ここに注目すべき一事は、"心と体とが一致して自由に働く"という所だ。》

、と書いてました。心と身体を一致させるというのは、創作や表現においての際に特に難しくなってしまう。私にとってもこれは大きなテーマです。


話が少し逸れたようですが、要はこの災難続きの状況は何なのだ?と考えている最中でして、とどのつまり「歩く」ということを手本に、考えあぐねるしかないのだなぁと思った次第です。どうやら、この災難も何かの予兆のようであるし。

3.10

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